吉野貴晶の『景気や株価の意外な法則』

No.46
平均給与を用いた投資指標の有効性(1)

2023年05月31日号

投資工学開発部
吉野 貴晶

金融情報誌「日経ヴェリタス」アナリストランキングのクオンツ部門で16年連続で1位を獲得。ビックデータやAI(人工知能)を使った運用モデルの開発から、身の回りの意外なデータを使った経済や株価予測まで、幅広く計量手法を駆使した分析や予測を行う。

  • サスティナビリティを重視する企業経営において人的資本が注目される中、株式市場でも人的資本形成に大きく関係する平均年間給与の高い企業が評価されている。
  • 平均年間給与を投資尺度として用いるには3つの留意点がある。

今号では、企業の人的資本の尺度の一つである平均給与に、どの程度の銘柄選択効果があるのかを確認し、利用する上での留意点を取り上げます。

近年、企業が持続的に成長していくための経営を目指す上で、人的資本の蓄積が重要視されています。人的資本をひと言で言えば、“従業員の技術・能力や仕事への意欲”のことです。企業が成長して利益を得るには、高い技術を持って良い製品を作ることです。とはいえ、技術を蓄えたり、優れた製品を産み出すのは、そもそも“人”ですから、良質な人材や、その能力を引き出す組織作りが最も重要になります。

こうした中、企業に対して人的資本の蓄積を促す指針などが政府から打ち出されています。2020年に経済産業省から注目の報告書が公開されました。「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書(※1)」です。 研究会の座長が、現在の一橋大学で名誉教授となっている伊藤邦雄氏であることから、“人材版伊藤レポート“と呼ばれています。この報告書では、人的資本経営を実現させていくために、経営戦略と連動した人材戦略をどう実践するかが示されたことで注目されました。そして昨年6月の「経済財政運営と改革の基本方針2022 新しい資本主義へ(骨太方針2022)」(※2)では、取り組みの1つに、人的資本投資として2024年度までの3年間に4,000億円規模の政策パッケージを講じ、働く人が自らの意思でスキルアップしデジタルなど成長分野への移動を支援していく、というものが盛り込まれました。このように政策面から人的資本の形成が促される中、企業側も人的資本をどのように高めていくのかが課題となっています。そして、企業経営の評価軸だけでなく、投資家の銘柄選別の基準としても人的資本が注目されています。

図表1:人的資本の蓄積に向けた政策面での主な動き

タイトル(年月:省庁) 主な内容

2020年9月:経済産業省

「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書 ~ 人材版伊藤レポート ~」

・人的資本経営を実現させていくために、経営戦略と連動した人材戦略をどう実践するかが示された。

2022年5月:経済産業省

「人的資本経営の実現に向けた検討会報告書~ 人材版伊藤レポート 2.0 ~」

・3つのポイントとして、(1)コーポレート・ガバナンス改革の文脈での議論(2)持続的な企業価値創造の文脈での議論(3)人事・人材改革を起こすために資本市場の力を借りようとする試みが示された。

2022年5月:内閣府

「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画(案)」

・新しい資本主義に向けた計画的な重点投資において、「人への投資と分配」が挙げられて賃上げ”の推進が示された。

2022年6月:内閣府

「経済財政運営と改革の基本方針2022:新しい資本主義へ(骨太方針2022)」

・人的資本投資として、2024年度までの3年間に4,000億円規模の政策パッケージを講じ、働く人が自らの意思でスキルアップしデジタルなど成長分野への移動を支援していくことが示された。

2022年6月:内閣官房

「人的資本可視化指針(案)」

・人的資本可視化の方法として、価値協創ガイダンス、IIRC等を活用した人的資本と競争力の繋がりの説明がされた。またガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標の4つの要素に添う開示方法が示された。

2022年8月:内閣官房

「人的資本可視化指針」

・6月公表の「指針(案)」から4点変更。(1)指針の強制力・規範性の明記(2)独自性のある取組など開示事項を2類型に増加(3)バリューチェーン上の取引先等を追加(4)財務資本と人的資本の繋がり確保が記載された。

  • 出所:関係省庁からの資料を基に、ニッセイアセットマネジメント作成

「骨太方針2022」では、人的資本の蓄積を加速させる手段として“働く人への分配を強化する賃上げの推進”が挙げられています。従業員の給与を高くすることで人的資本が形成されていくということです。給与が高ければ、優秀な人材を雇うことができますし、従業員の仕事のモチベーションにもつながるからです。そうであれば、“給与の高い企業は業績や株式パフォーマンスもよくなるのではないか”と考えられます。そこで、給与の情報にどの程度の銘柄選択効果があるのかを検証しました。

具体的な検証方法を確認しましょう。給与に関連する情報には“平均年間給与”を用いました。2012年6月末から、毎月末にユニバースであるTOPIX(東証株価指数)の構成銘柄の中から、平均年間給与の上位20%までを抽出します。こうして選んだ銘柄に等金額投資したポートフォリオの翌月のリターンを求め、ユニバース全体に等金額投資した場合のリターンを引いて超過部分を計算します。超過リターンを計算する理由は、ユニバース全体の平均的なリターンと比べて、平均年間給与の上位銘柄のリターンがどの程度上回っているかを見るためです。検証期間のエンドとなる2023年3月まで、2012年7月以降の超過リターンを毎月累積した推移を観察していきます。なお、平均年間給与は毎年1回、企業がウエブサイトなどを通じて公表する有価証券報告書で開示されており、本分析では日本経済新聞社のデータベースの数値を用いました。有価証券報告書の提出期限は会計年度末から3か月以内です。ここでは各分析の月末時点に既に公開されている数値を用います。

図表2:平均年間給与上位企業の累積超過リターン

  • ・分析期間は2012年7月から2023年3月まで。分析ユニバースはTOPIX構成銘柄を対象
  • ・「平均年間給与」は、毎月末時点に対象銘柄の直近で更新されている平均年間給与データを用いて、全体の上位20%までに該当する銘柄に等金額投資した場合のリターンから、同月のユニバース全体に等金額投資した場合のリターンを引いた超過分を求め、2012年7月から累積。
  • ・「業種調整した平均年間給与」は、同様に、毎月末時点にTOPIX-17シリーズの業種毎の上位20%までに該当する銘柄に等金額投資した場合のリターンから、同月のユニバース全体に等金額投資した場合のリターンを引いた超過分を求め、2012年7月から累積。
  • 出所:日本経済新聞社からのデータを基に、ニッセイアセットマネジメント作成

平均年間給与のグラフが足元にかけて右肩上がりとなっていることは、当指標の銘柄選択効果が高くなってきていることを示しています。近年にかけてサステナビリティを重視する企業経営において人的資本が注目される中で、株式市場でも人的資本形成に大きく関係する平均年間給与の高い企業が評価されてきたことが分かりました。

ただし、図表から3つの留意点があります。1つ目は、平均年間給与の銘柄選択効果が高まったのは、グラフが右肩上がりとなっている2018年以降ということです。それ以前はグラフが低下していましたが、当時を振り返ると、経営指標や投資尺度としてROE(株主資本利益率)重視の流れが強まっていた時期でした。2014年に経済産業省から「持続的成長への競争力とインセンティブ」と題する報告書(通称「伊藤レポート」)が発表されました。この報告書では、企業は「8%を上回るROEを最低ラインとし、より高い水準を目指すべき」と記されました。ROEは企業が1年間で稼ぐ利益の金額を株主資本の金額で割ったもので、株主が払い込んだ分のお金(株主資本)に対する見返りとして、会社がどれだけ利益を稼いでくれるのかを測る指標です。「伊藤レポート」では、最低ラインを「8%」に定めたことが大いに注目されました。こうしたROEへの注目は現在も続いていますが、伊藤レポートが公表されてからの数年間はとりわけ注目が高い投資指標となっていました。ROEを高めるために利益水準を上げることは、“費用”となる従業員の給与が抑えられる要因にもなります。株式市場における高ROE企業に対する“いきすぎた注目”の結果、従業員の給与を抑えた企業が評価されてしまうという現象が起こりえます。これが、2017年にかけて平均年間給与の高い銘柄のパフォーマンスが厳しかった一因だと考えられます。ROEへの注目が強まったきっかけが2014年公表の「伊藤レポート」でしたが、2020年公表の「人材版伊藤レポート」は人的資本形成に関係する平均年間給与への注目が強まる大きなきっかけになったと考えられます。

2つ目の留意点は、コロナ禍の2020年には平均年間給与のグラフが大きく落ち込んでいることです(図表2の丸囲み)。当時は経済全体が厳しい状況となる中、企業も利益確保が難しくなり、従業員の給与が高い企業はコスト面の負担が大きいため、株式市場でも厳しい評価を強いられた可能性があります。しかしながら、その後は2020年の「人材版伊藤レポート」公表を境に回復を見せています。

3つ目の留意点は、業種調整した平均年間給与のグラフが、平均年間給与のグラフを上回っていることです。“業種調整した平均年間給与”は次のように算出します。毎月末に平均年間給与のデータを用いて、TOPIX-17シリーズの業種毎に年間平均給与が高い順に上位20%までに該当する銘柄を抽出します。こうして選んだ銘柄に等金額投資したポートフォリオの翌月のリターンを求め、ユニバース全体に等金額投資した場合のリターンを引いて超過部分を計算し、毎月累積していきます。業種調整した平均年間給与のほうが銘柄選択効果が高くなったのは、図表3に示すように、業種毎に平均給与の水準が異なるためです。成長している業種は平均給与が高くなる傾向があるほか、年齢、性別など従業員の属性も異なるため業種毎に平均給与には特性があります。平均年間給与のデータを投資尺度として用いるためには、こうした特性をコントロールする必要も考えられます。次号、本シリーズ第2号の“平均給与を用いた投資指標の有効性(2)”では、平均給与のデータについて、さらに銘柄選択効果を高めていく工夫を紹介します。

図表3:業種別の平均年間給与の傾向

(単位:万円)

  • ・TOPIX構成銘柄を対象。2023年3月末時点で取得可能な情報より算出。
  • ・TOPIX-17シリーズは東京証券取引所のウェブサイト参照。
  • 出所:日本経済新聞社のデータを基に、ニッセイアセットマネジメント作成
  TOPIX-17シリーズ 平均値
  順位
1 食品 658 13
2 エネルギー資源 784 3
3 建設・資材 730 5
4 素材・化学 660 12
5 医薬品 815 2
6 自動車・輸送機 628 16
7 鉄鋼・非鉄 650 15
8 機械 655 14
9 電機・精密 713 7
10 情報通信・サービスその他 663 11
11 電力・ガス 748 4
12 運輸・物流 664 10
13 商社・卸売 705 8
14 小売 543 17
15 銀行 724 6
16 金融(除く銀行) 823 1
17 不動産 695 9
平均値 697
最大値 823
最小値 543

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