アナリストの眼

働きやすさと企業価値

掲載日:2016年12月07日

アナリスト

投資調査室 泉 聡基

「働き方改革」のインプリケーション

「世の中から『非正規』という言葉を一掃していく。そして、長時間労働を自慢する社会を変えていく。そういう日本にしていきたいと考えている次第であります」

これは今年9月に安倍首相が働き方改革実現推進室の開所にあたって述べた訓示の一部です。「働き方改革」においては、正社員による長時間労働の是正、同一労働同一賃金の推進を通じて、少子高齢化進行の歯止めだけに留まらず、現役世代の将来不安の緩和による個人消費の活性化が狙いとなっています。

私が担当する小売セクターは、個人消費と密接したセクターであること、また労働集約的な産業であることから、需要供給の両面で人々の働き方の変化が業界の将来に大きな影響を及ぼすと言えます。このことから中長期的な投資テーマの一つとして注目しています。

働きやすさと企業価値

ここで、「働きやすさ」が株式市場から見た企業価値にどのように繋がっているのか整理してみましょう。

我々株式投資家は一般的に、企業が生み出す将来キャッシュフローを「割引率」(株主資本コスト)を用いて現在価値に割り引くことで、理論的な企業価値を算出しています。従って、「働きやすさ」が企業価値評価に影響を与える経路としては、1.将来キャッシュフロー予想値の変化、2.推定される割引率の変化の2パターンについて考慮する必要があります。では、それぞれの経路について、「働きやすさ」がどのような影響を与えうるのか、考えてみましょう。

1.将来キャッシュフローへの影響

当然のことながら、企業が将来生み出すキャッシュフローの予想値が大きければ大きいほど、企業価値は高く評価されます。従業員が自らのライフスタイルや家庭状況に応じて働き方を柔軟に選択できるような企業は、従業員のやる気を高めると同時に、これまで長時間労働を前提とした労働市場から疎外されていた優秀な人材を募ることができるでしょう。また、一定の残業を前提とした「どんな課題に対しても一様にベストエフォート」的な発想から「本当に必要な事への集中的なコミットメント」へとシフトが起きることで、特に日本企業(非製造業)の課題であった生産性の向上も期待できます。このように、「働きやすさ」の推進は企業の競争力の源泉の一つである人材の強化、生産性向上としての経営効率の改善につながり、将来キャッシュフローを増大させるドライバとなりうると思われます。

小売セクターにおいては店舗人員を始めとして、パートタイム労働者の比率が高くなっています。パートタイム労働者にとって働きやすい環境とは、裏を返して言えば業務の標準化やオペレーションの効率化が進んでいるということであり、店舗効率のコントロールがしっかりできていることの証跡とも言えるでしょう。このことは、小売業者が多店舗展開を進めていくにあたって利益率のコントロールが出来るのかどうかを判断するうえで重要なポイントです。

企業イメージとの関係性も重要でしょう。昨今ではSNSの浸透も相まって、労務問題が表面化した企業への社会的批判もより強まる傾向にあります。深刻な企業イメージ棄損に繋がれば、企業の商品やサービスからの消費者離れや、人材流出・採用への支障として企業業績に直接悪影響を及ぼし、結果として市場が予想する将来キャッシュフローも下方修正される可能性があります。逆に、良好な企業イメージを持つ企業、働きやすさに定評がある企業においては、昨今のパートタイム労働者を中心とした人手不足の状況下にあっても特に採用に支障は出ていないという事例がいくつか見られます。

2.割引率への影響

割引率とは、企業が将来生み出すキャッシュフローを現在価値に割り戻すために用いられるもので、株価のように誰からも同じ数字が確認できるものではなく、投資家が理論的に推定しなければいけないものです。推定の前提となる考え方はいくつか存在するのですが、基本的には株式投資に伴うリスクの対価として捉えることが出来ます。

これからの日本社会においてより高まるであろう従業員の多様な働き方へのニーズに応えられない企業は、将来キャッシュフローの確からしさが弱いという意味で株式市場が追加的なリスクプレミアム(=リスクの対価)を要求するとしても不思議ではありません。そのような企業に対しては、市場はより高い割引率で将来キャッシュフローを割り引くことになるので、算出される理論的な企業価値も低くなってしまいます。

勿論、個々のビジネスモデルや成長段階によって求められるものも異なるため、一概に理念を押し付けるのではなく、それぞれの企業の事情を理解することに努めたうえで、その人材に関する戦略の妥当性を評価することが重要であると考えています。

株式アナリストとしてのミッション

企業にとって重要なステークホルダーの一つである従業員との関係が将来業績に及ぼす影響を深く正しく理解して、精度の高い中長期業績予想を組み立てること、そのうえで更なる企業価値向上に向けて企業との対話に臨むことで、機関投資家としての責任ある投資の一端を担いたいと心掛けています。

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