アナリストの眼

運用者の「違和感」と、ソクラテス的「理性」

掲載日:2009年03月24日

アナリスト

投資調査室 大澤 竜一

紀元前400年頃のアテナイでは、ソフィスト達が懐疑主義を唱え、正しいことと正しくないことの絶対的な基準など無い、ということを主張しました。ソクラテスはそれに真っ向から反対します。彼は、人間には絶対的な理性が存在し、幾つかの基準は常に絶対的なものであると説きました。つまり、人には生まれながらに真実を理解する能力が備わっており、ひたむきに考え自分の中から生み出した理解は、すなわち普遍的な真実であるという主張です。

私は、ソクラテス的な理性の存在には懐疑的でした。どのような行いであろうとも、属する集団や置かれた状況によって良くも悪くも評価される、それが人間社会であると考えていたためです。太平洋戦争中の日本社会、あるいは政治献金に関わる汚職問題などをみてもそれは明らかと思っていました。

しかし、意外なことでしたが、ともに受託財産の運用を行なうファンドマネージャー達との接触から、ソクラテス的な理性の存在について意識させられるようになりました。

社内で行なわれる討議の場では、私はファンダメンタルズの分析者として自説を披露し、ファンドマネージャー達は実際の運用者としての立場から疑問や意見を投げかけます。

その際素直に思うのは、彼らの質問は最短距離で本質を突いているということです。更には、セクターや銘柄の価値が今後どうなっていくか、どのようなリスクが存在するのか、ということについての、ひたむきで、切迫した緊張感を感じるのです。しばしばそれに圧倒されると同時に、心の琴線に触れ、感動を覚えもします。

事実、企業との対話において、特にマネジメント層は、前線の運用者の意見や印象を聞きたがることが多いと感じます。企業の経営層も、ファンドマネージャーの言葉を価値あるものと評価しているのでしょう。

上記のようなことが本当であるという前提で、その理由を私なりに考えてみました。それは、人間にとって非常に重要な「お金」に対して、具体的な形で責任をとらされるというシステムによるものだと思います。個人名の下で他人のお金の運用に責任を負うということは、通常の仕事ではあり得ない状態でしょう。その生々しい緊迫感は、仕事と自身の人生との間に高度な利害の一致を生み、仕事上の判断に対して、人生の一大時(あるいは生死に関わること)のごとき「理性」を与えるのではないかと思います。その中で発せられる問いは、ひたむきに真実を求める理性から来るものであり、聞くものが圧倒され、琴線に触れるものなのでしょう。

こうした状況に置かれている運用者方に対し、大変な敬意を持ちながら、日々接しています。

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